FC2ブログ

茶の話(22) 間違いだらけの丁宗鐡「正座と日本人」

丁宗鐡著「正座と日本人」の茶の湯に関する間違い一覧でございます。

 

講談社に返金運動をする際などにお役立て下さいまし(笑)

 

※ コピペ・拡散絶賛推奨中 

 

 

(誤)利休は、田中与兵衛(與兵衛)を父に、宝心妙樹を母に持つことからもわかるように

(正)利休の母は、月岑妙珎宝心妙樹は最初の妻。

 

 

(誤)四畳半以下の茶室のことを、小間・・・

(正)四畳半より小さい茶室を小間という。四畳半は広間としても使える。

 

 

(誤)四畳半以下の茶室のことを、・・・草庵茶室といいます。

(正)四畳半以下で、草庵でない茶室もある。違い棚、書院などが付いたら草庵にならない。

 

 

(誤)この小間は、江戸時代までは「高麗」と書き、朝鮮建築のことです。

(正)高麗と書いて「こま」と読むのは、高句麗のこと。江戸時代は、地名などを除いて高麗は「こうらい」としか読まない。

 

 

(誤)にじり口は朝鮮建築の典型例です

(正)"korean traditional house"で画像検索してみましょう。

http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=korean+traditional+house&rlz=1R2TSJH_jaJP342&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=-A5xTPP2HI3AuAOr08xC&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCIQsAQwAA&biw=1039&bih=589

 

 

(誤)おそらく利休は、堺で高麗人やその後に来日した李朝の朝鮮人と交流する中で、高麗茶道の作法とともににじり口をはじめとした小間を発想したのではないでしょうか

(正)利休が生まれたのは1522年。1392年に滅びた高麗人と交流することは不可能。

(正)にじり口は、利休の師匠武野紹鷗の時代にもある。利休の発明ではない。

 

 

(誤)江戸時代には、女性が茶の湯をすることはほとんどなかったはずです。

(正)吉野太夫、松室宗江など名高い女流茶人もいる。

 

 してるし・・・

 

 

 

(誤)狭い茶室で師匠である男性と女性が一緒にお茶を飲むのも、ありえないことでした

(正)秀吉の時代から、千家をはじめとする町人茶道は、老若男女、身分、国籍関係なくできる。

 

 朝鮮の女性と違い、江戸の女性は社会のあちこちに自由に出没していた。

 

 

 

(誤)裏千家でも、明治の末頃には十四世淡々斎宋室が京都第一高等女学校へ指導に出向き、高等女学校茶儀科教員の資格が与えられるようになります

(正)京都第一高等女学校の前身、新英学級及女紅場で茶の指導をしたのは、淡々斎の祖母真精院。淡々斎の父、円能斎が高等女学校で茶の湯の指導を始めたのが大正3年。京都第一高等女学校が設立された明治37年、淡々斎は12歳。

 

 

(誤)明治に入ると文明開化の煽りを食い、茶道は前時代の古い文化と見なされ、また茶道をたしなむ層は武士の一部と富裕な町人などに限られていたため、茶道の人気は没落の一途をしばらくたどった。

(正)明治時代は、文明開化で財をなした新興勢力が新たな茶の湯の担い手となっている。

有名な明治の茶人は、井上世外(井上薫)、三井財閥の益田鈍翁や三井八郎右衛門、帝国蚕糸の原三渓、鉄道王根津嘉一郎、大日本麦酒(現アサヒ・サッポロビール)の馬越化生、安田銀行や帝国ホテルを設立した安田財閥の安田松翁、、朝日新聞創設者の村山龍平、藤田組の藤田香雪、初代大阪市長の田村太兵衛、大阪商船の田中市兵衛、百三十銀行の松本重太郎、帝国銀行・北浜銀行を創立した磯野小右衛門、白鶴酒造の嘉納次郎左衛門、住友春翠など錚々たる顔ぶれ。

 

 

(誤)茶道を大成した千利休、利休の師にあたる武野紹?(たけのじょうおう)、千家三代目であり三人の息子たちがそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家を興した千宗旦(せんそうたん)、江戸時代に江戸千家を創始した川上不白(かわかみふはく)などの肖像画や木像は、“アグラ”や坐禅の座法である“半跏趺坐(はんかふざ)”である。

(正)利休、宗旦、細川三斎、古田織部、小田有楽斎、村田珠光などが正座の肖像も残している。胡坐や座禅を組んだ肖像は、法衣や道服を着ている。坊さんと同じなので胡坐や座禅でも不思議はない。

 

 

(誤)これらを総合して考えると、寺院の儀礼的な飲茶茶礼から亭主と客が心を通わせる茶の湯、さらには精神性を高めた茶道へと発展する過程に、正座はまったく関与していなかったといえそうです。少なくとも江戸時代後期までは正座と茶道を結びつけるものはないと考えるのが妥当です。

(正)江戸時代初期の「人倫訓蒙図彙」に、正座をしている茶の湯者が描かれている。

 

 

 

(誤)江戸城内では刃傷沙汰がときどき起きていた。そのため、刃傷沙汰を防止する意味を含めて、足がしびれ、刀が抜きづらく、機敏な動作に支障をきたす作法が注目された。やがて各大名が将軍に拝謁する際、動きづらい長袴を礼装にして、正座をとらせるようになった。これが八代将軍・吉宗(1684~1751)の代からとしている

(正)江戸城内の刃傷沙汰で改易になったのは、赤穂浅野家だけである。長袴は、秀吉の時代には既に礼装になっていることが、伊達家の歴史書「貞山公治家記録」に書かれている。

また、浅野匠守が吉良上野介を斬りつけた際に着用していたのは長袴で、五代将軍・綱吉の時代であったことは日本人なら誰もが知っている。

 

 

(誤)この支配階級(=武士階級)の作法である正座を、明治新政府は、正座の習慣がなかった庶民にも勧めた

(正)正座は、武士階級だけの作法ではない。江戸時代の多くの文献に、町人や庶民が正座している絵図が残されている。

 

 両替商

 

 

※ コピペ・拡散絶賛推奨中

 

 

ぶった斬る!シリーズ

*************************

その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

 

 

 

続きを読む

スポンサーサイト

茶の話(21) 丁宗鐡と朝日新聞をぶった斬る!

さて、いよいよ丁宗鐡をぶった斬るシリーズ「最終回」でございます。

 

丁宗鐡の著書「正座と日本人」を8回にわたってぶった斬ってまいりましたが、あまりの間違いの多さに講談社もよくこんな作品を世に出したものと呆れかえるばかりでございます。せめてウリナラ・ファンタジーのフィクションとして売り出すならまだしも、ノンフィクションとして売り出すあたり詐欺と謗られても致し方ございません。「正座と日本人」を買われた方は、返金運動を起こしてもよいかと存じます。

 

それにしても、丁宗鐡はなぜこれほど多くの間違いを、恥も外聞もなく書き散らしたのでございましょう。

その答えとなる、書評を「朝日新聞」のサイトで発見いたしましたのでご紹介いたします。

 

 

正座と日本人 [著]丁宗鐵         [評者]江上剛(作家)

 

 トロイ遺跡を発見したシュリーマンは幕末の日本旅行記に、家族が正座して食事をする姿を興味深く書き残している。ベストセラー『「縮み」志向の日本人』の著者である李御寧は、正座を、精神を集中させ安静を得る「どの民族も模倣しがたい姿勢」と位置づけている。私たちに当たり前の正座は、外国人から見ると極めて特異な日本独自の文化のようだ。

 

 本書は、医学博士であり、茶道にも精通した著者が、正座の歴史、文化、医学的意味などを丹念に調べたものだ。かつては立てひざやあぐらが正式な座り方であり、あの千利休でさえ正座をしていなかった。正座が一般化するのは明治以降で、明治政府が近代日本人を形成しようと、自己を律する武士道の象徴としての正座を広めた教育の成果だ。その結果、正座の習慣がない朝鮮や中国を蔑視(べっし)するようになったのは不幸なことだという著者の視点は新しい。

 

 正座は脳血流を改善し、認知症やメタボリック症候群を防ぐ効果があると、健康面も丁寧に解説している。正座という日常習慣は日本文化の象徴だったのだと、目からウロコが落ちる。

http://book.asahi.com/review/TKY200906160093.html

 

 

これまでご説明してきました通り、「正座が一般化するのは明治以降」というのは大間違い。「明治政府が近代日本人を形成しよう」とした、というのもウソでございます。そもそも、丁宗鐡は明治に入って茶の湯が旧弊な物として排斥されたと(これもまたウソでございますが)主張している一方で、明治政府が正座を奨励したと主張する、自己矛盾に気づかないのでございましょうか。

 

そんな自己矛盾はケンチャナヨなのが丁宗鐡、何が何でも次の主張に引っ張って行きたかったのでございましょう。

 

「その結果、正座の習慣がない朝鮮や中国を蔑視(べっし)するようになったのは不幸なことだ」

 

反日論争に中国人を巻き込むのは、最近の朝鮮人の常套手段でございますが、椅子の生活をしていた中国人が正座ができずに蔑視されたと言う話は寡聞にして聞きません。

 

そもそも、明治政府が正座を奨励したと言うなら、なぜ明治時代の学校は机と椅子で教育をしていたのでございましょう。寺子屋のように正座で授業をすべきでしょう。

   

    日本の近・現代史の問題点」より

 

 

さらに、明治のリーダーたちも自ら模範を示すべきでしょう。

      

 

当時、明治政府が目指していたのは、一にも二にも西欧化。実は、跡見女学校が授業に茶道を取り入れたいと申し出た際、当時の文部省は難色を示したといいます。どう考えても、明治政府が正座を奨励したとは思えません。

 

ただし、当時の教科書には正しい姿勢として正座の仕方が書かれております。

とはいえ、それが政府が奨励した証拠にはなり得ません。なぜなら、初等教科書には「出来て当たり前」のことしか書かれてないのが普通でございいます。正座の仕方の他にも、筆や鉛筆の持ち方、挨拶の仕方、九九などなど、出来て当たり前、出来なければ生活に支障をきたすレベルのことがほとんどでございます。

わたくしが使った書き方の教科書にも正座の仕方は書かれておりましたが、昭和の日本政府が正座を奨励したとは聞きません。

 

 

>ベストセラー『「縮み」志向の日本人』の著者である李御寧は、正座を、精神を集中させ安静を得る「どの民族も模倣しがたい姿勢」と位置づけている。

 

この主張も大変面白いものでございます。

 

『「縮み」志向の日本人』の著者である李御寧には、是非とも読ませたい一文がございます。

 

椅子が出される気遣いは全くないので、われわれヨーロッパ人には、堅い床に座るか、うずくまるという痛ましい試練が与えられる。

朝鮮人は通常、両脚を大きく広げてうずくまり、この姿勢のままで数時間座り続けても、一向に疲労も不便も感じないのだ。

 

1896年に朝鮮を視察したアメリカ人アリフタン中佐の手記でございます。

 

畳のない朝鮮の家屋で、堅い床に座らされた当時の西洋人の苦労は相当なものだったことでしょう。

朝鮮人が蔑視されたのは、むしろ椅子を出したりする気遣いができなかったからではございませんか?

 

その点の幕末の日本人の気遣いには、多くの外国人が感銘を受けておるようでございます。

 

 オールコックは、江戸と経済の中心地である京都・大坂を結ぶ東海道に、人と商品の往来が途絶えることがないのを見た。そして、ある宿場に泊まった時の体験を次のように書き綴っている。
  「親切に世話をしてくれたその男は、一生懸命工夫して、腰掛けることのできるものを即席で作ってくれた。というのは、我々ヨーロッパ人は足を組んだり交差させたりして床の上に直接座ることができないからである。日本人には天分がある。あっという間に、あまり費用を使わずに、簡単な材料で十分使用に耐えるものを作ってしまった。それは大変な才能である。宿屋の主人は半ダースの木の桶を持って来て、その上にそれぞれ一枚の板を釘で打ちつけ、その上に綿の入った座布団2枚を椅子のシート代わりに固定した。彼はあっという間に、大した費用をかけずに我々西洋人がキリスト教徒らしく座れるものを作ってくれたのだが、それを見ているのは実に楽しかった」

 

松原久子・著「驕れる白人と闘うための日本近代史 」
 

 

ところで、朝日新聞に書評を書かれた作家の江上剛さんでございますが、よほど朝鮮人の著作がおすきなようでございます。そのせいで「かの国の法則」が発動したのか、会社が大変なことになっておるようでございます。

 

 

振興銀が経営破綻、初のペイオフ発動

 

多額の不良債権を抱えて経営難に陥っていた日本振興銀行(東京都千代田区)は10日、6月末時点で1870億円の債務超過に陥ったとして自主再建を断念し、金融庁に破綻(はたん)を申請した。同日に民事再生法の適用を東京地裁に申請する。政府と預金保険機構は、預金保険法に基づき、預金の払い戻しを元本1000万円とその利息までとする「ペイオフ」を発動する。発動は、1971年に制度ができて以来初めて。

 払い戻しが保証される額を超える部分は支払いが一部カットされる可能性がある。カット額は振興銀の資産状況を調べた結果、決められる。金融庁によると、同行の預金は定期預金のみで預金残高は5859億円(8月末)。1000万円を超える預金者は全体の約3%に当たる3560人で、預金量では計471億円。

 同庁は10日から12日まで、すべての業務の停止を命じる行政処分を出した。預金保険機構を金融整理管財人に選任し、払い戻しを週明けから始めるための準備を進める。自見庄三郎金融担当相は10日、「日本の金融システムの安定性に影響を与えることはないと考えている」と述べた。振興銀の健全な融資は、受け皿となる金融機関に引き継がれる。

 振興銀は2004年、金融コンサルタントの木村剛前会長が中心となって設立、中小企業向け融資を中心に業容を拡大した。しかし、金融庁が昨年6月から今年3月まで立ち入り検査した結果、多くの業務メールを意図的に削除する検査忌避などの法令違反行為が見つかった。このため、6月7日から9月末まで、一部業務の停止命令を出した。

 さらに、金融庁から検査忌避容疑で刑事告発を受けた警視庁は7月、木村前会長ら幹部5人を逮捕し、その後起訴された。社外取締役で作家の江上剛(本名・小畠晴喜)氏が社長に就任し、経営再建を図っていた。しかし、金融庁からの指示で大口融資先などを精査した結果、回収が難しい融資があることが判明し、9月中間決算で、多額の貸倒引当金を積むことを迫られる見通しとなった。

(中日新聞)

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2010091090103115.html

 

 

 

 

 

ぶった斬る!シリーズ

*************************

その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

まとめ 丁宗鐡「正座と日本人」間違い一覧

 

 

続きを読む

茶の話(20) 丁宗鐡をぶった斬る その8

では、前回に引き続き畳の歴史を見てまいりましょう。

 

 

 

<古代の畳>

 

現存する、最古の畳は正倉院に残る「御床畳」でございます。

御床畳(ごしょうのたたみ)は、聖武天皇崩御の際、光明皇后が奉納された遺品のうちの一つでございます。

 

御床畳は、御床と畳の部分とで構成された寝台でございます。

 

畳は、マコモの筵を重ねた芯とイグサ製の畳表、麻製の畳裏で出来ておりますが一部分しか残っておりません。

そのため全体像は想像するしかございませんが、現在の畳と比べましてずっと薄い物でございます。

御床は、幅118センチ、長さ237センチ、4本の脚が付いたヒノキ製の台で、これに畳を載せ寝台とするものでございます。

 

 

畳に関する記述は、古事記や日本書紀、万葉集にも見られますが、当時の畳は筵を重ねたような御床畳に近い物と考えられております。

そもそも、「畳」は「畳む」から来ておりますので、当初は畳めるくらいに薄かったということでございます。

 

 倭は 國のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

 

古事記や日本書紀に出てまいります、倭健命の歌でございますが、この「たたなずく」は「畳なずく」で、「畳み重ねたようにくっついている」という意味でございます。

 

古事記にございます神武天皇「皇后選定」の章には、菅畳の記述がございます

 

天皇、その伊須氣余理比賣の許に幸行でまして、一宿御寝しましき。後にその伊須氣余理比賣、宮のうちに参入りし時、天皇御歌よみしたまひけらく、

  葦原の しきけき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し

とよみたまひき。然して生まれしし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱なり。

 

葦原の荒れた小屋に、菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、伊須氣余理比賣と寝所を共にし、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三人の御子が生まれたと言うことでございます。原文の菅畳は、「須賀多多美」でございます。

 

また、景行天皇「小碓命の東伐」の章では、倭健命が走水(浦賀水道)を渡る途中で航行不能となった船を進めるため、后の弟橘比賣が倭健命に代わって入水する場面にて、「菅疊八重、皮疊八重、絹疊八重を波の上に敷きて、その上に下りましき」ともございます。

原文の絹疊は「絁(いとへんに施のつくり)」の文字が使われております。

これらは、菅製、皮製、絹製の筵と考えてよろしいでしょう。

 

 

<寝殿造りと畳>

 

さて、畳が現代のような厚みを持つようになりますのは、平安時代でございます。

当時の建築は、部屋の区切りのない寝殿造りでございまして、大広間のような板間を屏風や几帳で仕切って生活しておりました。

畳を敷き詰めることは致しませんで、寝台や座所として必要な場所に持ち運んで使用しておりました。

おひなさまが座っているような物を、ご想像いただければよろしいでしょう。

 

平安時代、畳を使えるのは貴族のみで、身分により厚みや縁の色柄が決まっておりました。

 

枕草子に、「昔おぼえて不用なるもの 繧繝ばしの畳のふし出で来たる」とございます。

繧繝(うげん)は、天皇・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇が用いました、最も格の高いの畳縁でございます。

その格調高い畳縁から畳の節が出てまいりますのを、清少納言は昔おぼえて不用なるもの、時の経過により使えなくなるものの例に挙げておるのでございます。何やら、古い畳をいつまでも御使用になられた宮様への当てこすりに聞こえますが、そのようなお方が実在したのでしょうか。

また、「ことさらに御座といふ畳のさまにて、高麗など、いと清らなり」ともございます。

高麗(こうらい)もまた、格の高い畳縁の一つでございまして、親王や大臣が使用いたしました。現代では、床の間や寺社などに使われております。

この記述をネタに、畳は韓国起源と主張する輩が出てこないのが不思議でございますが、古典は苦手なのでしょうか。もっとも、漢字を忘れて自国の古文書もお読みになれない状態では無理もございませんが。

 

 

<書院造と座敷>

 

畳を敷き詰めて使うようになりましたのは、書院造の発達した室町時代と言われておりますが、鎌倉後期の絵巻物にも畳が敷き詰められたように描かれているものがございます。また、最古の畳職人の記述は、鎌倉時代の「鶴岡放生会職人歌合」に見られます。

 

鎌倉時代には、武士の勢力が隆盛いたしまして、外敵の侵入に備えて濠や塀をめぐらした武家屋敷が生まれます。武家屋敷におきましては、寝室のみに畳を敷き、他は板の間とするのが一般的でございました。

 

室町時代になりますと、幕府が京都に遷されましたため武家屋敷に貴族や僧侶のテイストが加わり書院造が誕生いたします。

書院とは、もともと禅僧の住まう居間兼書斎の名称でございましたが、やがて床の間(または押し板)、違棚、付書院などの座敷飾りを備えた座敷や建物を広く書院造と呼ぶようになりました。書院を中心に構成された書院造は、接客や対面の機能を重視し、床の間に最も近い畳を上座とするなど格式を重んじるものとなっております。

 

この書院造が、武家の間で「正座」が始められる切っ掛けとなったのでございます。

まず、書院がヨーガの座法、金剛座(正座)を知っていた禅僧の住まいであったこと。

次に、書院造が接客・対面を目的としており、敬意を表す正座がその目的に適していたこと。

そして、畳が敷き詰められることにより正座がしやすくなったことが、普及の切っ掛けの大きな理由でございます。

 

また、畳を部屋全体に敷き詰めましたのは、足利義政が東求堂に作りました同仁斎という四畳半の居室が最初ございまして、これが四畳半茶室の源流でございます。

 

 

<畳のサイズと敷き方>

 

安土桃山時代になりますと、茶の湯が大流行いたしまして武家の間に正座の習慣と共に畳が普及いたします。

丁宗鐡の言うように、茶の湯が胡坐や立て膝で行われていたのであれば、畳がこれほど普及することはございませんでしたでしょう。むしろ、板の間の方が茶を点てる様々な道具を置くには安定感がございます。わざわざ高価な畳を、我も我もと導入するとは思われません。

 

この時代に行われた太閤検地により一間が6尺3寸と定められ、畳の長さもそれに合わせて6尺3寸、幅はその半分となりました。もっとも、これは京間サイズでございまして、江戸間の畳は5尺8寸でございます。これは、江戸時代に増税を行うために一間が6尺と改定され、6尺を元に柱割りという柱の幅を間口に含めて畳のサイズを算出したこと由来します。

 

茶の湯の流行により、江戸時代初期には武士と財力のある商家に畳が普及し、また江戸時代中期以降、一般の町人にも次第に広まっていきましたのは前回ご説明申し上げたとおりでございますが、それでも畳が貴重品であったことは確かでございます。そのため、商家などでも大広間の畳は、敷きっぱなしにせず蔵などに大切に保管しておくことが殆んどでございました。

 

現代でも、畳の敷き方に祝儀敷き・不祝儀敷きがございますが、婚礼や葬儀など人が集まる際に大広間に畳を敷いた際、祝儀と不祝儀で敷き方を変えたことの名残でございます。現代では、会合の度に畳を敷きかえるようなことは致しませんので、一般の住宅で不祝儀敷きを見ることはございませんが、寺などで見られる畳を同じ方向に向けて並べた敷き方が不祝儀敷きでございます。一般の住宅での敷き方は、通常、祝儀敷きとなっています。

 

四畳半の敷き方で、半畳を真ん中に敷くのは「凶敷き」と申しまして、不祝儀敷きを超越した禍々しい敷き方でございますので絶対におやめ下さい。

 

また、床の間の前に敷く畳は、必ず畳縁を床の間に平行にして敷きます。こうしますと、畳の目の滑りやすい方向が床の間に向き、床の間に飾られたお軸や美術品などを拝見する際に、にじり易くなるのでございます。

つまり、床の間のすぐ前で立ったり座ったりするのも御法度なのでございます。床の間に飾られた美術品に万一の事があってはいけません。床の間より少し離れた所で座り、にじって床の間に近寄り拝見いたします。拝見後は、にじって下がり少し離れた所で立ち上がるのがお作法でございます。

 

 

<日本人と正座>

 

さて、2回にわたりまして正座と畳の歴史を見てまいりましたが、日本人が正座をする理由は次の二つにあると言えましょう。

 

・ 相手に対する敬意

・ 安定した姿勢で何かを行うための不動の姿勢

 

日本人は、人だけでなく物に対しても敬意を払うものでございます。

人と接し物を扱う商家などでは、正しい姿勢で対応できない使用人がいては大店の信用に拘わりますゆえ、使用人の教育も行き届いておりました。

また、日本には行儀見習いという制度がございまして、身分の低い町人でも大店や武家に奉公に出て行儀作法を習う機会があったのでございます。実際、江戸城の大奥で水くみや薪割りなど力仕事をする「お末」などは、町人の娘などが多かったのでございますが、お末といえども何処で身分の高い者に出くわさないとも限りません。そのような場合の行儀作法は徹底的に仕込まれたのでございます。

 

 

信用第一の両替商

 

つまり、家に畳が無くとも庶民は奉公先で正座を始めとする行儀作法を習得し、それをまた子や孫に伝えたりできたのでございます。

 

日本人であれば、どなたも幼少の頃にお年寄りから「畳の縁を踏んではいけません」などと叱られた体験があるものでございましょう。このような行儀作法の元は茶の湯の作法でございいます。確かに、正座と畳が武家に広まりましたのは茶の湯の大流行のおかげでございますが、茶の湯の行儀作法は行儀見習いを通して瞬く間に庶民の間にも伝わったのでございます。

 

渓斎英泉「炉ひらき」

 

 

格上の御屋敷に奉公して格上のお作法を学ぶ行儀見習いという風習は、英国の貴族の子弟にもあるそうでございますが、このような風習のないお国の方には、庶民が上流階級の作法を学べるルートが存在するなど思いもよらない事でございましょう。

 

茶の湯の作法は、現代の日本にもそれと知られずに息づいておるのでございます。

 

 

 

ぶった斬る!シリーズ

*************************

その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

まとめ 丁宗鐡「正座と日本人」間違い一覧

 

 

 

茶の話(19) 丁宗鐡をぶった斬る その7

前回は、江戸初期に編纂された「人倫訓蒙図彙」より、商人などの描かれた方により町人の間での「正座」の浸透を見てまいりました。

今回は、職人および農民の描かれ方から、庶民と農民への正座と畳の普及について考察してまいりましょう。

 

 

まずは、職人の部でございますが、様々な姿勢で描かれております。

職人でございますゆえ、基本は仕事がしやすい姿勢でございましょう。

 

絵師(左)と金彫師(右)でございます。

絵師は、しっかりと正座。金彫師は、粋に立て膝で彫金しております。

 

 

こちらは、毛皮職人、矢を作る職人、鎧兜を修繕する職人、香を調合する香焚師。

それぞれ作業のしやすい姿勢で仕事いたしております。香焚師は、正座で調合しております。

 

 

左から、形彫師、作花師、楊弓師でございます。

形彫師は、反物に小紋などの柄を付けるための型を彫る職人でございます。

形彫師と造花を作る作花師は、それぞれ正座で作業いたしております。

楊弓は、小さな矢で的を狙う射的のような遊びでございます。

 

 

こちらは、綿摘み女、洗濯女、湯熨師でございます。

綿摘みは、綿入れの着ものなどから綿を取り出したりする老女や少女向けの軽作業でございます。

湯熨は、反物に蒸気を当てて布目を整えるアイロンのような作業でございます。

通常、板張りをして伸ばしますが、縮緬や絞りなどの板張りでは風合いが損なわれるものを湯熨をかけます。

 

 

こちらは、和菓子職人。左から、道明寺師、煎餅師、ちまき職人、餅師でございます。

道明寺は、桜餅などに使われる道明寺粉を作る作業でございますが、細かい作業らしく正座で行っております。

 

 

こちらは、茶道具関係の職人。左から、紙入れ師、巾着師、茶入袋師でございます。

ご覧の通り、職人は作業に適した姿勢で仕事をしておりますゆえ、正座で描かれている者より胡坐や立て膝の者が多くございますが、職人といえどもお武家相手に接客致します時には、茶入袋師のように正座で対応いたします。

 

傾向と致しましては、繊細さが要求される作業では正座が多いようでございます。

 

 

左から、畳職人、鏡職人、鋳物職人、天秤職人。

 

商人の部と職人の部を見てお分かりの通り、元禄3年にして既に町人にも畳がかなり普及いたしております。

人倫訓蒙図彙でも、畳師として畳職人が紹介されております。

 

江戸時代は武士の世の中と考えられがちでございますが、実は、元禄時代には既に経済の実体は町人に握られておりました。

畳は、安土桃山時代から江戸初期にかけて、茶の湯の流行によって武士の間で正座と共に普及いたしましたが、経済の実態を握るほどの財力が集中した商家などにも既に広まっていたのでございます。

 

丁宗鐡は、武家に畳と正座が普及したのが江戸時代中期から後期、庶民に普及したのが明治末期と主張しております。彼の歴史認識には、なぜか必ず150年程度のズレが見られまして、安土桃山時代に150年前に滅亡した高麗人が登場したり致します。

 

実際には、江戸初期にはほとんどの武家に畳が普及しておりました。元禄にもなりますと、ご覧の通り商家にも普及いたしております。

とは言いますものの、当時はまだ天然のイグサを使用しておりましたため、貴重品であったことは確かでございまして、「御畳奉行」なる役職も設置されております。また、身分によって畳の縁の色や柄、材質に制限がございました。

 

江戸時代中期から、長屋住まいの庶民でも畳を持つものが登場いたします。

当時の長屋の間取りは、四畳半の板敷きと一畳半の土間が標準で、畳は入居者が自前で用意しておりました。

やがて、江戸時代後期には畳の需要が増えるにつれてイグサの栽培が行われるようになり、価格も手ごろになると町人のほとんどが畳を使うようになったのでございます。

 

「茶々を入れる」と同じ意味のことわざに「半畳を入れる」というのがございます。

江戸時代の芝居小屋で役者の演技に満足しない観客が、半畳サイズの畳を舞台に投げ込んだことから出来たものでございます。さしずめ現代の大相撲で座布団が舞うがごとくの光景でございましょうが、それほど畳がポピュラーなものになっていたという証左でございましょう。

 

農村部に畳が普及いたしますのは、明治に入ってからでございます。

しかしながら、「畳が普及していない=正座が普及していない」とは限らないのが歴史の面白さでございます。

 

人倫訓蒙図彙の「農人の部」は、野外で作業する農民の図がほとんどでございまして、なかなか正座の図はございません。

脱穀、耕作

田植え

 

 

右側の図は、綿師と言いまして養蚕農家でございます。

絹糸は、お蚕さまの命を頂いて作る貴重な品でございます。

大切なお蚕さまを前にして正座をする綿師は、まさに日本人の心を表していると言えましょう。

左は、炭焼きの図でございます。

 

このように農民であれども、時と場合に合わせて正座もいたすのでございます。

 

畳がほとんど普及していなかった農村でございますが、右の図ように「円座」という座布団を作りまして使っておりましたため、正座をすることもできたのでございます。

円座作りの隣りは、筵打ち。左の図は、瀬戸物を焼く土窯師でございます。

 

江戸時代の庶民の教育機関と言えば寺子屋でございますが、寺子屋は元禄時代には農村・漁村にも普及しておりました。

 

 

寺子屋では手習いを中心に教えますが、習字と言えば正座が基本。

農民や漁民にも、このようにして正座の習慣が広まったのでございます。

 

 

江戸後期には、農村でも茶の湯が流行していたという資料を展示した、博物館のニュースもございます。

 

【愛知】農村でも愛された“茶の湯” 一宮市博物館で道具や文書展示

 

 江戸時代に、尾張西部で盛んだった茶の湯文化を紹介する企画展「茶の湯の浸透-茶進上仕りたく」が一宮市大和町妙興寺の市博物館で開かれている。7月26日まで。

 茶の湯が農村にまで浸透していたことを伝える資料や茶道具など計86点を展示。京都から尾張地方に供給された宇治茶の生産の様子が分かる絵図や、尾張藩に出入りした宇治茶師に関する資料も並ぶ。

 江戸後期に広がった茶の湯の中心は、地域の実力者である庄屋だったといわれ、ある庄屋により1839(天保10)年に記された「茶事記」からは、茶の湯を楽しみながら、知識人と交流を深め、国学の知識を重ねたり、和歌や雅楽を堪能したりする様子が分かる。

 別の庄屋が公私を書き連ねた「雑略記」からは、幕末になると正式な茶会のほかに家族や趣味仲間などとも日常的に茶の湯を楽しんでいたことがうかがえる。

 入場料は一般200円、高校大学生100円、小中学生50円。11、19、25日には小中学生向けのイベント(参加料200円)もある。(問)市博物館=電0586(46)3215
http://tabi.chunichi.co.jp/odekake/0701001aichi_tea.html

 

 

 

大変長くなりましたので、ひとまずここまでと致します。

後ほど、古事記からの畳の歴史を見てまいります。

 

 

ぶった斬る!シリーズ

*************************

その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

まとめ 丁宗鐡「正座と日本人」間違い一覧

 

  

茶の話(18) 丁宗鐡をぶった斬る その6

purple-dさまのご紹介で始まりました、丁宗鐡をぶった斬るシリーズも、いよいよ6回目を数えることとなりました。

 

丁宗鐡は、正座は江戸時代の武士階級の作法で、庶民が正座を始めたのは明治政府が広めたためと主張しているようでございますが、その真相やいかに?今回も、江戸時代初期に編纂されました「人倫訓蒙図彙」を駆使して、日本人と正座の歴史に迫りとう存じます。

 

 

またまた、恐縮ながら前回と同じウェブサイトからの引用でございます。

ウェブサイトを書かれた方が、丁宗鐡の主張を纏めていらっしゃいます。

 

 

==== 引用開始 ====
http://www7a.biglobe.ne.jp/~thaishun/zaturoku27.html

 

この支配階級(=武士階級)の作法である正座を、明治新政府は、正座の習慣がなかった庶民にも勧めた。これが、女子教育の茶道にも取り入れられた。茶道と正座の関係は、思っているほど深くはないようだ。

 

 今日、“正座”と呼ばれる座法は、本来は「かしこまる」とか「つくばう」「跪坐(きざ)」「端坐(たんざ)」などと呼ばれ、主として神前、仏前での儀礼的な場面で行われ、また主君に対して家臣がかしこまる姿であった。そして庶民が日常的に正座をするようになったのは、畳の普及や座布団(ざぶとん)の使用が正座を広めた側面もあり、それらが庶民に普及し始めた明治末ではないかという。

 

==== 引用終 ====

 

 

>この支配階級(=武士階級)の作法である正座を、明治新政府は、正座の習慣がなかった庶民にも勧めた。

 

百聞は一見に如かず。「人倫訓蒙図彙」で町人、農民など庶民の描かれ方を確認いたしましょう。

 

 

まずは、芸道者や算勘など専門職の部から。

 

左は筆道者、現代的に言えば書道家でございまして、右は学者とございます。

 

学者や筆道者などの元々の身分は、武士や僧侶ばかりではございません。実力の世界ですので町人出身者もおります。

 

こちらを見ますと、武士が師匠に畏まって教えを受けております。

日本人にとりましては、どのような出身の者でも師匠と名がつけば、尊敬の対象でございますゆえ、武士と言えども教えを受ける際には正座してかしこまるのでございます。

 

つまり、以下の考え方は正しいとは申せません。

 

>今日、“正座”と呼ばれる座法は、本来は「かしこまる」とか「つくばう」「跪坐(きざ)」「端坐(たんざ)」などと呼ばれ、主として神前、仏前での儀礼的な場面で行われ、また主君に対して家臣がかしこまる姿であった。

 

丁宗鐡は、正座を主君に対する忠誠の表現と誤解しておるようですが、正座は忠誠を表すものではございません。

正座は「敬意」を表現するものでございます。

 

 

左頁にございますのは、目利き(鑑定士)と香嗅ぎ(香道者) 、右頁は立花(生け花)と庭作りの様子でございます。

 

目利き、香嗅ぎ、いずれも正座いたしております。目利きに鑑定を依頼している者も正座していると思われます。

目利きが正座をいたしておりますのは、依頼人からの貴重品を丁重に扱っておるためでございます。

香嗅ぎの正座は、茶道と同じく香道にも「不動の姿勢」が採り入れられたものでございます。

 

生け花をしている武士も正座でございます。花に対する忠誠心はございませんでしょうから、これも不動の姿勢でございましょう。

しかし、庭作りともなりますと、このようにワイルドな出で立ちで行わざるを得ません。

 

 

左頁は商家の算勘(経理)の様子、右頁は、諸礼者が武士に講義をしている場面でございます。

 

算勘の右上に描かれているのは、羽織を付けておりますので番頭でございましょう。胡坐をかいております。

算盤を弾いておりますのベテランの手代、手前の前髪は丁稚でございますが、それぞれ正座いたしております。

 

このように江戸初期にして、商家の人間、つまり町人も正座をしていたのは明確でございます。

 

 

 

右頁は、一筋切(ひとよぎり)と申しまして、尺八から派生した楽器でございます。

師匠も、前髪の武士の子弟も正座いたしております。

 

しかし、武士と言えども、魚を捌く台所方ともなりますと、正座などしてはおれません。

 

 

 

右頁は、囲碁や将棋に興じる様子でございます。武士や坊主も、リラックスして思い思いの座り方をしております。

因みに、左頁に描かれておりますのは、楽人でございます。 

 

 

次に、商人の部を見てまいりましょう。

 

 

まずは、呉服屋でございます。

 

呉服屋と言えば、高級品を取り扱う大店でございます。

使用人の教育も行き届いておりますゆえ、作業に適した姿勢で商品を取り扱っております。

当然、正座もいたします。

 

 

 

古手屋(右)は、古着を売買するカジュアルなお店でございますが、武士相手に接客いたします際は、正座で畏まって対応いたします。

 

しかし、大店と違い客も来ない時間には、左頁の切れや(端切屋)のとおりでございます。

 

 

 

左の質屋は、相手が町人ですので畏まることなく胡坐で対応いたしております。

 

唐物屋(右)は、輸入した茶道具などを扱う店でございますが、客がキセルをふかすような状況では、立て膝でざっくばらんな対応でございます。取り扱い商品の性質上、顔なじみが多いようでございます。

 

 

 

蘭麝粉屋は、異性を誘う香料のお店でございます。

妙齢の女性客が多い商売でございますゆえ、正座で丁寧に対応しておるようでございます。

 

 

 

左は珍しい商売で、口寄せ巫女と書いてございます。

いわゆる霊媒師でございますが、正座を致しておりますのは、霊界に対する敬意でございましょうか。

あるいは、客が帯刀しておりますところを見ますと、武士への敬意でございましょうか。

 

右は、遊里の店の様子でございますが、太夫は正座しております。

手前におりますのが「やり手」、左におりますのが「くつま」と申します店の主人でございます。

ここでも客はお武家のようでございます。

 

 

現代におきまして「かしこまる」という言葉から誰もが連想いたしますのは、店員の使う「かしこまりました」という言葉でございます。江戸時代、士農工商の一番下に位置づけられた商人であればこそ、かしこまる機会がどの身分よりも多かった名残でございましょう。

 

 

 

次回は、職人と農民、畳の歴史を見てまいります。

 

 

 

ぶった斬る!シリーズ

*************************

その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

まとめ 丁宗鐡「正座と日本人」間違い一覧

 

 

続きを読む

プロフィール

maaz

Author:maaz
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR