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茶の話(17) 丁宗鐡をぶった斬る その5

前回に引き続きまして、今回も茶の湯と正座の関係についてぶった斬らせて頂きとう存じます。

 

さて、恐縮ながら前回とおなじウェブサイトの記事を引用させていただきます。

 

=== 引用開始 ====

http://www7a.biglobe.ne.jp/~thaishun/zaturoku27.html

 

茶道と正座

 

茶道は、昔から正座で行っていたと思っていた。しかし、先の『正座と日本人』では、茶人はもともと正座をしていなかったと強調している。

茶道を大成した千利休、利休の師にあたる武野紹?(たけのじょうおう)、千家三代目であり三人の息子たちがそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家を興した千宗旦(せんそうたん)、江戸時代に江戸千家を創始した川上不白(かわかみふはく)などの肖像画や木像は、“アグラ”や坐禅の座法である“半跏趺坐(はんかふざ)”である。

 

さらに千利休の愛(まな)弟子であった細川三斎(ほそかわさんさい)の伝書『細川茶湯之書』には、「客が安座してくつろいでいる時は、主人は片膝を立てていた」と記している、などの例をそれぞれ詳しく説明し、次のように述べている。

<<これらを総合して考えると、寺院の儀礼的な飲茶茶礼から亭主と客が心を通わせる茶の湯、さらには精神性を高めた茶道へと発展する過程に、正座はまったく関与していなかったといえそうです。少なくとも江戸時代後期までは正座と茶道を結びつけるものはないと考えるのが妥当です。また、茶会における座り方は明治時代になるまでは自由だったと、多くの専門家が指摘しています(『文化としてのマナー』熊倉功夫、岩波書店)>>
 
『正座と日本人』の著者は、正座が武家を中心に広まったのは江戸時代中ごろから後半であると推測している。

江戸城内では刃傷沙汰(にんじょうざた)がときどき起きていた。そのため、刃傷沙汰を防止する意味を含めて、足がしびれ、刀が抜きづらく、機敏な動作に支障をきたす作法が注目された。やがて各大名が将軍に拝謁(はいえつ)する際、動きづらい長袴(ながばかま)を礼装にして、正座をとらせるようになった。これが八代将軍・吉宗(1684~1751)の代からとしている。

 

この支配階級(=武士階級)の作法である正座を、明治新政府は、正座の習慣がなかった庶民にも勧めた。これが、女子教育の茶道にも取り入れられた。茶道と正座の関係は、思っているほど深くはないようだ。

=== 引用終 ====

 

 

今回は、図絵をふんだんに活用いたしますので、気楽にお楽しみくださいませ。

 

 

>茶道を大成した千利休、利休の師にあたる武野紹?(たけのじょうおう)、千家三代目であり三人の息子たちがそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家を興した千宗旦(せんそうたん)、江戸時代に江戸千家を創始した川上不白(かわかみふはく)などの肖像画や木像は、“アグラ”や坐禅の座法である“半跏趺坐(はんかふざ)”である。

 

 

千宗旦の肖像は、胡坐だけではござません。正座のものもございます。

 

 

 

利休の肖像も胡坐が有名でございますが、「茶湯六宗匠傳記」には正座像が描かれております。

 


それぞれの胡坐像と正座像の共通点がおわかり頂けますでしょうか。
 

服装が違うのでございます。胡坐の方は道服、正座の方は現代の着物の原型「小袖」に羽織を付けた十徳姿でございます。
茶道の道服は、禅僧の法衣と同じでございまして、正式には道服に絡子という小型の袈裟を着用いたします。
茶人は、禅宗の高僧の下に参禅し得度いたします。胡坐の肖像を残してもなんら不思議ではございません。

 

 

利休の師、武野紹鷗の銅像も法衣姿でございます。
道服と呼びならわすようになりましたのは利休以降でございますので、これは法衣でございます。

川上不白の像は、まさに坐禅いたしております。

一方、紹鷗の先人、村田珠光は正座の肖像を残しております。

 

 

 

>さらに千利休の愛(まな)弟子であった細川三斎(ほそかわさんさい)の伝書『細川茶湯之書』には、「客が安座してくつろいでいる時は、主人は片膝を立てていた」と記している、などの例をそれぞれ詳しく説明し、次のように述べている。


細川三斎自身、正座の肖像を残しております。他にも古田織部や織田有楽斎(信長の弟)も正座の肖像を残しております。

 


こちらも巧みに誤解を招く文章が書かれておりますが、茶事において「客が安座してくつろいでいる時」とはどのような時でございましょうか。

 

茶会の構成は、初座と後座に分かれております。初座は、炉の場合は初炭の後に、風炉の場合は初炭の前に懐石がございます。懐石も正座で頂くのが好ましいとされておりますが、懐石の一番の目的は主客歓談の一時を持つことでございます。食事を楽しみ、客同士酒を酌み交わして頂きますので、安楽にしていただいても構いません。

 

この時亭主は、杯に最初のお酒を注いだり、汁物のお代りを勧めたりいたしますので、「片膝を立てていた」というのは、いつでも客に応対できる姿勢でいたということでございます。朝鮮人のように、立て膝をついてドッカリ座るということではございません。
つまり、①正座、②踵を上げた正座、②の状態で片膝を少し上げるなど、亭主が客に対応しやすい姿勢をとるのでございます。

 

また、後座では濃茶の後で後炭点前を行いますが、この際、煙草盆と薄茶のためのお菓子が出されます。ここでは緊張感のある濃茶の後で、客にゆっくりと寛いでいただきます。その後の薄茶は、亭主と客が楽しく語らいながら行うのでございます。

 

 

>これらを総合して考えると、寺院の儀礼的な飲茶茶礼から亭主と客が心を通わせる茶の湯、さらには精神性を高めた茶道へと発展する過程に、正座はまったく関与していなかったといえそうです。少なくとも江戸時代後期までは正座と茶道を結びつけるものはないと考えるのが妥当です。

 


こちらは「人倫訓蒙図彙」第2巻にございます「茶湯者」の図(左頁)でございます。
右上におりますのが茶の湯の師匠で、お武家が二人指導を受けております。
三名とも、しっかり正座致しております。

 

「人倫訓蒙図彙」は江戸時代初期の元禄3年に書かれた職業図鑑全7巻でございます。
巻頭に「上貴き公卿より庶人の賤しきにいたるまでの其の所作をくわしく家々に尋ねて来由をたゞし云々」とございますように、公卿・武家・商人・職人・百姓・漁師・芸能人など、あらゆる階層の仕事の内容を図絵と解説で表した書物でございます。

 

元禄3年(1690)といえば、三千家の祖宗旦から裏千家を継いだ四男仙叟宗室(1622-1697)も、まだ存命の頃でございます。

 

「江戸時代後期までは正座と茶道を結び付けるものはない」というのは大間違いもいいところでございます。
一体何をお調べになったら、このような結論がでるのでございましょう。

 

因みに、上図の右頁に描かれておりますのは「軍法師」でございまして、軍法師の講義を受ける武士は畏まって正座いたしております。

「人倫訓蒙図彙」には、このように畏まる武士の姿が多く描かれております。従いまして、著者による以下の推測も全くの間違いと言えましょう。

 

>『正座と日本人』の著者は、正座が武家を中心に広まったのは江戸時代中ごろから後半であると推測している。

 

 

以下は、ウェブページを書かれた方の文章でございますが、丁宗鐡の論説の代用として引用させていただきます。


>江戸城内では刃傷沙汰(にんじょうざた)がときどき起きていた。そのため、刃傷沙汰を防止する意味を含めて、足がしびれ、刀が抜きづらく、機敏な動作に支障をきたす作法が注目された。やがて各大名が将軍に拝謁(はいえつ)する際、動きづらい長袴(ながばかま)を礼装にして、正座をとらせるようになった。これが八代将軍・吉宗(1684~1751)の代からとしている。


いえいえ。刃傷沙汰が「ときどき」起きたりしておりましたら、どれだけのお家が改易になったことでございましょう。
後にも先にも城内の刃傷沙汰で改易になったお家は、赤穂藩浅野家だけでございます。
赤穂事件は、元禄14年、五代将軍徳川綱吉の御代に起きた事件でございまして、この時すでに長袴が礼装になっておりましたのは皆様もご存じのとおりでございます。

 

長袴が礼装になったのが八代将軍吉宗の時代からなどと、本当に一体何をお調べになったのやら・・・

 

因みに、茶道頭の礼装も長袴でございまして、長袴は武士だけのものではございません。


 

武士の長袴は江戸時代以前から礼装として用いられております。

 

伊達正宗は、豊臣秀吉の没後、脇差・鎬藤四郎吉光を遺品として賜り家宝と致しておりました。
この脇差を徳川秀忠が所望した際、正宗はこれを断り息子の忠宗に語っております。


「公毎年元日には白綾の御小袖に菊桐の御紋府たるをめさられ、御長袴の上に鎬藤四郎の脇指を指せらる」
秀吉公は、毎年元旦に白綾の小袖に菊桐の紋付を着用し、長袴の上に鎬藤四郎の脇差を指しておられた。

これは、伊達家の歴史書「貞山公治家記録」に記されているものでございます。


 

礼装に、長ったらしいものを引きずりますのは平安時代からの伝統でございます。

こちらも「人倫訓蒙図彙」にある図絵でございますが、公卿文官の夏束帯でございまして、江戸時代になっても引き続き用いられております。

 

 

 

また、正座の肖像を残された江戸時代以前からの武士もおります。

武田信玄公、武田勝頼公、武田家に仕えた真田幸村でございます。

 

 

武田家は長篠の合戦で滅びましたが、幸村は江戸初期まで生き延びております。

 

とはいえ、武士も冠束帯を着用の際は、このように胡坐をかくのが習わしでございます。

 

 

徳川家康でございますが、因みに足の裏と裏を合わせるこの座り方は合せき坐(せき=あしへんに庶)と申しまして、禅の座法の一つでございます。

 

禅宗の「座禅」の由来は、インドのヨーガスートラ第2章にございます「ディヤーナ」の音訳でございまして、ヨーガには以下の6つの座法がございます。

 

1)結跏趺坐 パドマ・アーサナ

2)半跏趺坐 パッドゥラ・アーサナ

3)盤坐 スワスティカ・アーサナ

4)合せき坐 バッタコーナ・アーサナ

5)金剛坐 ヴァジラ・アーサナ

6)長坐 パダターナ・アーサナ

 

アーサナとは、サンスクリット語で姿勢という意味でございます。

結跏趺坐は、釈迦が悟りを開いた際にとっていた姿勢で、両足を腿に乗せる最も知られた座法。半跏趺坐は、片方の足だけを腿に乗せる座法でございます。盤座は、いわゆる胡坐でございまして、合せき坐は上記のとおりでございます。

 

そして、金剛坐でございますが、これがまさしく正座でございまして、ヨガにおきましては座法の王様と呼ばれております。

サンスクリット語のヴァジラ・アーサナは、不動の姿勢を意味します。

また、釈迦が悟りを開いた菩提樹の下の座所を「金剛座=ヴァジラ・アーサナ」と呼びます。

 

ヨーガ(瑜伽=ゆが)が、日本に入ってまいりましたのは、空海の時代にさかのぼると言われております。

 

茶道が、ヨーガの座法を取り入れた禅宗と深い関わりがございますことを考えれば、不動の姿勢である正座でお点前を行いますのも自然な流れと申せましょう。 

 

 

 

次回は、このあたりを少し弄ってみたいと存じます。


>支配階級(=武士階級)の作法である正座を、明治新政府は、正座の習慣がなかった庶民にも勧めた。

 

 

 

ぶった斬る!シリーズ

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その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

まとめ 丁宗鐡「正座と日本人」間違い一覧

 

  

 

AUTHOR: tm05311 DATE: 08/31/2010 21:23:00 なぜ、日本人は床に座ることを選択したのでしょうね。中国の影響でイスに座っていてもおかしくないのですが。 正座は畳の成立と関係があると思うのですが、インドが原点だと敷物とかどうしていたのでしょう。 岩波書店の創業者は古本屋で本を愛していた人なのですが、どうしてこんなに劣化してしまったのでしょう。 三銃士の日本語訳は、ほれぼれするほど躍動感に溢れる名文だったりするのですが、寂しいものです。 ガリア戦記の現代語訳で出版して欲しい。現在の訳はリズム感が悪くて、歴史上屈指の名文家と言われたカエサルの良さが伝わらない。 今回も良かったです。よくここまで調べますね。何時間かけているのでしょうか。
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