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茶の話(19) 丁宗鐡をぶった斬る その7

前回は、江戸初期に編纂された「人倫訓蒙図彙」より、商人などの描かれた方により町人の間での「正座」の浸透を見てまいりました。

今回は、職人および農民の描かれ方から、庶民と農民への正座と畳の普及について考察してまいりましょう。

 

 

まずは、職人の部でございますが、様々な姿勢で描かれております。

職人でございますゆえ、基本は仕事がしやすい姿勢でございましょう。

 

絵師(左)と金彫師(右)でございます。

絵師は、しっかりと正座。金彫師は、粋に立て膝で彫金しております。

 

 

こちらは、毛皮職人、矢を作る職人、鎧兜を修繕する職人、香を調合する香焚師。

それぞれ作業のしやすい姿勢で仕事いたしております。香焚師は、正座で調合しております。

 

 

左から、形彫師、作花師、楊弓師でございます。

形彫師は、反物に小紋などの柄を付けるための型を彫る職人でございます。

形彫師と造花を作る作花師は、それぞれ正座で作業いたしております。

楊弓は、小さな矢で的を狙う射的のような遊びでございます。

 

 

こちらは、綿摘み女、洗濯女、湯熨師でございます。

綿摘みは、綿入れの着ものなどから綿を取り出したりする老女や少女向けの軽作業でございます。

湯熨は、反物に蒸気を当てて布目を整えるアイロンのような作業でございます。

通常、板張りをして伸ばしますが、縮緬や絞りなどの板張りでは風合いが損なわれるものを湯熨をかけます。

 

 

こちらは、和菓子職人。左から、道明寺師、煎餅師、ちまき職人、餅師でございます。

道明寺は、桜餅などに使われる道明寺粉を作る作業でございますが、細かい作業らしく正座で行っております。

 

 

こちらは、茶道具関係の職人。左から、紙入れ師、巾着師、茶入袋師でございます。

ご覧の通り、職人は作業に適した姿勢で仕事をしておりますゆえ、正座で描かれている者より胡坐や立て膝の者が多くございますが、職人といえどもお武家相手に接客致します時には、茶入袋師のように正座で対応いたします。

 

傾向と致しましては、繊細さが要求される作業では正座が多いようでございます。

 

 

左から、畳職人、鏡職人、鋳物職人、天秤職人。

 

商人の部と職人の部を見てお分かりの通り、元禄3年にして既に町人にも畳がかなり普及いたしております。

人倫訓蒙図彙でも、畳師として畳職人が紹介されております。

 

江戸時代は武士の世の中と考えられがちでございますが、実は、元禄時代には既に経済の実体は町人に握られておりました。

畳は、安土桃山時代から江戸初期にかけて、茶の湯の流行によって武士の間で正座と共に普及いたしましたが、経済の実態を握るほどの財力が集中した商家などにも既に広まっていたのでございます。

 

丁宗鐡は、武家に畳と正座が普及したのが江戸時代中期から後期、庶民に普及したのが明治末期と主張しております。彼の歴史認識には、なぜか必ず150年程度のズレが見られまして、安土桃山時代に150年前に滅亡した高麗人が登場したり致します。

 

実際には、江戸初期にはほとんどの武家に畳が普及しておりました。元禄にもなりますと、ご覧の通り商家にも普及いたしております。

とは言いますものの、当時はまだ天然のイグサを使用しておりましたため、貴重品であったことは確かでございまして、「御畳奉行」なる役職も設置されております。また、身分によって畳の縁の色や柄、材質に制限がございました。

 

江戸時代中期から、長屋住まいの庶民でも畳を持つものが登場いたします。

当時の長屋の間取りは、四畳半の板敷きと一畳半の土間が標準で、畳は入居者が自前で用意しておりました。

やがて、江戸時代後期には畳の需要が増えるにつれてイグサの栽培が行われるようになり、価格も手ごろになると町人のほとんどが畳を使うようになったのでございます。

 

「茶々を入れる」と同じ意味のことわざに「半畳を入れる」というのがございます。

江戸時代の芝居小屋で役者の演技に満足しない観客が、半畳サイズの畳を舞台に投げ込んだことから出来たものでございます。さしずめ現代の大相撲で座布団が舞うがごとくの光景でございましょうが、それほど畳がポピュラーなものになっていたという証左でございましょう。

 

農村部に畳が普及いたしますのは、明治に入ってからでございます。

しかしながら、「畳が普及していない=正座が普及していない」とは限らないのが歴史の面白さでございます。

 

人倫訓蒙図彙の「農人の部」は、野外で作業する農民の図がほとんどでございまして、なかなか正座の図はございません。

脱穀、耕作

田植え

 

 

右側の図は、綿師と言いまして養蚕農家でございます。

絹糸は、お蚕さまの命を頂いて作る貴重な品でございます。

大切なお蚕さまを前にして正座をする綿師は、まさに日本人の心を表していると言えましょう。

左は、炭焼きの図でございます。

 

このように農民であれども、時と場合に合わせて正座もいたすのでございます。

 

畳がほとんど普及していなかった農村でございますが、右の図ように「円座」という座布団を作りまして使っておりましたため、正座をすることもできたのでございます。

円座作りの隣りは、筵打ち。左の図は、瀬戸物を焼く土窯師でございます。

 

江戸時代の庶民の教育機関と言えば寺子屋でございますが、寺子屋は元禄時代には農村・漁村にも普及しておりました。

 

 

寺子屋では手習いを中心に教えますが、習字と言えば正座が基本。

農民や漁民にも、このようにして正座の習慣が広まったのでございます。

 

 

江戸後期には、農村でも茶の湯が流行していたという資料を展示した、博物館のニュースもございます。

 

【愛知】農村でも愛された“茶の湯” 一宮市博物館で道具や文書展示

 

 江戸時代に、尾張西部で盛んだった茶の湯文化を紹介する企画展「茶の湯の浸透-茶進上仕りたく」が一宮市大和町妙興寺の市博物館で開かれている。7月26日まで。

 茶の湯が農村にまで浸透していたことを伝える資料や茶道具など計86点を展示。京都から尾張地方に供給された宇治茶の生産の様子が分かる絵図や、尾張藩に出入りした宇治茶師に関する資料も並ぶ。

 江戸後期に広がった茶の湯の中心は、地域の実力者である庄屋だったといわれ、ある庄屋により1839(天保10)年に記された「茶事記」からは、茶の湯を楽しみながら、知識人と交流を深め、国学の知識を重ねたり、和歌や雅楽を堪能したりする様子が分かる。

 別の庄屋が公私を書き連ねた「雑略記」からは、幕末になると正式な茶会のほかに家族や趣味仲間などとも日常的に茶の湯を楽しんでいたことがうかがえる。

 入場料は一般200円、高校大学生100円、小中学生50円。11、19、25日には小中学生向けのイベント(参加料200円)もある。(問)市博物館=電0586(46)3215
http://tabi.chunichi.co.jp/odekake/0701001aichi_tea.html

 

 

 

大変長くなりましたので、ひとまずここまでと致します。

後ほど、古事記からの畳の歴史を見てまいります。

 

 

ぶった斬る!シリーズ

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その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

まとめ 丁宗鐡「正座と日本人」間違い一覧

 

  

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