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茶の話(20) 丁宗鐡をぶった斬る その8

では、前回に引き続き畳の歴史を見てまいりましょう。

 

 

 

<古代の畳>

 

現存する、最古の畳は正倉院に残る「御床畳」でございます。

御床畳(ごしょうのたたみ)は、聖武天皇崩御の際、光明皇后が奉納された遺品のうちの一つでございます。

 

御床畳は、御床と畳の部分とで構成された寝台でございます。

 

畳は、マコモの筵を重ねた芯とイグサ製の畳表、麻製の畳裏で出来ておりますが一部分しか残っておりません。

そのため全体像は想像するしかございませんが、現在の畳と比べましてずっと薄い物でございます。

御床は、幅118センチ、長さ237センチ、4本の脚が付いたヒノキ製の台で、これに畳を載せ寝台とするものでございます。

 

 

畳に関する記述は、古事記や日本書紀、万葉集にも見られますが、当時の畳は筵を重ねたような御床畳に近い物と考えられております。

そもそも、「畳」は「畳む」から来ておりますので、当初は畳めるくらいに薄かったということでございます。

 

 倭は 國のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

 

古事記や日本書紀に出てまいります、倭健命の歌でございますが、この「たたなずく」は「畳なずく」で、「畳み重ねたようにくっついている」という意味でございます。

 

古事記にございます神武天皇「皇后選定」の章には、菅畳の記述がございます

 

天皇、その伊須氣余理比賣の許に幸行でまして、一宿御寝しましき。後にその伊須氣余理比賣、宮のうちに参入りし時、天皇御歌よみしたまひけらく、

  葦原の しきけき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し

とよみたまひき。然して生まれしし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱なり。

 

葦原の荒れた小屋に、菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、伊須氣余理比賣と寝所を共にし、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三人の御子が生まれたと言うことでございます。原文の菅畳は、「須賀多多美」でございます。

 

また、景行天皇「小碓命の東伐」の章では、倭健命が走水(浦賀水道)を渡る途中で航行不能となった船を進めるため、后の弟橘比賣が倭健命に代わって入水する場面にて、「菅疊八重、皮疊八重、絹疊八重を波の上に敷きて、その上に下りましき」ともございます。

原文の絹疊は「絁(いとへんに施のつくり)」の文字が使われております。

これらは、菅製、皮製、絹製の筵と考えてよろしいでしょう。

 

 

<寝殿造りと畳>

 

さて、畳が現代のような厚みを持つようになりますのは、平安時代でございます。

当時の建築は、部屋の区切りのない寝殿造りでございまして、大広間のような板間を屏風や几帳で仕切って生活しておりました。

畳を敷き詰めることは致しませんで、寝台や座所として必要な場所に持ち運んで使用しておりました。

おひなさまが座っているような物を、ご想像いただければよろしいでしょう。

 

平安時代、畳を使えるのは貴族のみで、身分により厚みや縁の色柄が決まっておりました。

 

枕草子に、「昔おぼえて不用なるもの 繧繝ばしの畳のふし出で来たる」とございます。

繧繝(うげん)は、天皇・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇が用いました、最も格の高いの畳縁でございます。

その格調高い畳縁から畳の節が出てまいりますのを、清少納言は昔おぼえて不用なるもの、時の経過により使えなくなるものの例に挙げておるのでございます。何やら、古い畳をいつまでも御使用になられた宮様への当てこすりに聞こえますが、そのようなお方が実在したのでしょうか。

また、「ことさらに御座といふ畳のさまにて、高麗など、いと清らなり」ともございます。

高麗(こうらい)もまた、格の高い畳縁の一つでございまして、親王や大臣が使用いたしました。現代では、床の間や寺社などに使われております。

この記述をネタに、畳は韓国起源と主張する輩が出てこないのが不思議でございますが、古典は苦手なのでしょうか。もっとも、漢字を忘れて自国の古文書もお読みになれない状態では無理もございませんが。

 

 

<書院造と座敷>

 

畳を敷き詰めて使うようになりましたのは、書院造の発達した室町時代と言われておりますが、鎌倉後期の絵巻物にも畳が敷き詰められたように描かれているものがございます。また、最古の畳職人の記述は、鎌倉時代の「鶴岡放生会職人歌合」に見られます。

 

鎌倉時代には、武士の勢力が隆盛いたしまして、外敵の侵入に備えて濠や塀をめぐらした武家屋敷が生まれます。武家屋敷におきましては、寝室のみに畳を敷き、他は板の間とするのが一般的でございました。

 

室町時代になりますと、幕府が京都に遷されましたため武家屋敷に貴族や僧侶のテイストが加わり書院造が誕生いたします。

書院とは、もともと禅僧の住まう居間兼書斎の名称でございましたが、やがて床の間(または押し板)、違棚、付書院などの座敷飾りを備えた座敷や建物を広く書院造と呼ぶようになりました。書院を中心に構成された書院造は、接客や対面の機能を重視し、床の間に最も近い畳を上座とするなど格式を重んじるものとなっております。

 

この書院造が、武家の間で「正座」が始められる切っ掛けとなったのでございます。

まず、書院がヨーガの座法、金剛座(正座)を知っていた禅僧の住まいであったこと。

次に、書院造が接客・対面を目的としており、敬意を表す正座がその目的に適していたこと。

そして、畳が敷き詰められることにより正座がしやすくなったことが、普及の切っ掛けの大きな理由でございます。

 

また、畳を部屋全体に敷き詰めましたのは、足利義政が東求堂に作りました同仁斎という四畳半の居室が最初ございまして、これが四畳半茶室の源流でございます。

 

 

<畳のサイズと敷き方>

 

安土桃山時代になりますと、茶の湯が大流行いたしまして武家の間に正座の習慣と共に畳が普及いたします。

丁宗鐡の言うように、茶の湯が胡坐や立て膝で行われていたのであれば、畳がこれほど普及することはございませんでしたでしょう。むしろ、板の間の方が茶を点てる様々な道具を置くには安定感がございます。わざわざ高価な畳を、我も我もと導入するとは思われません。

 

この時代に行われた太閤検地により一間が6尺3寸と定められ、畳の長さもそれに合わせて6尺3寸、幅はその半分となりました。もっとも、これは京間サイズでございまして、江戸間の畳は5尺8寸でございます。これは、江戸時代に増税を行うために一間が6尺と改定され、6尺を元に柱割りという柱の幅を間口に含めて畳のサイズを算出したこと由来します。

 

茶の湯の流行により、江戸時代初期には武士と財力のある商家に畳が普及し、また江戸時代中期以降、一般の町人にも次第に広まっていきましたのは前回ご説明申し上げたとおりでございますが、それでも畳が貴重品であったことは確かでございます。そのため、商家などでも大広間の畳は、敷きっぱなしにせず蔵などに大切に保管しておくことが殆んどでございました。

 

現代でも、畳の敷き方に祝儀敷き・不祝儀敷きがございますが、婚礼や葬儀など人が集まる際に大広間に畳を敷いた際、祝儀と不祝儀で敷き方を変えたことの名残でございます。現代では、会合の度に畳を敷きかえるようなことは致しませんので、一般の住宅で不祝儀敷きを見ることはございませんが、寺などで見られる畳を同じ方向に向けて並べた敷き方が不祝儀敷きでございます。一般の住宅での敷き方は、通常、祝儀敷きとなっています。

 

四畳半の敷き方で、半畳を真ん中に敷くのは「凶敷き」と申しまして、不祝儀敷きを超越した禍々しい敷き方でございますので絶対におやめ下さい。

 

また、床の間の前に敷く畳は、必ず畳縁を床の間に平行にして敷きます。こうしますと、畳の目の滑りやすい方向が床の間に向き、床の間に飾られたお軸や美術品などを拝見する際に、にじり易くなるのでございます。

つまり、床の間のすぐ前で立ったり座ったりするのも御法度なのでございます。床の間に飾られた美術品に万一の事があってはいけません。床の間より少し離れた所で座り、にじって床の間に近寄り拝見いたします。拝見後は、にじって下がり少し離れた所で立ち上がるのがお作法でございます。

 

 

<日本人と正座>

 

さて、2回にわたりまして正座と畳の歴史を見てまいりましたが、日本人が正座をする理由は次の二つにあると言えましょう。

 

・ 相手に対する敬意

・ 安定した姿勢で何かを行うための不動の姿勢

 

日本人は、人だけでなく物に対しても敬意を払うものでございます。

人と接し物を扱う商家などでは、正しい姿勢で対応できない使用人がいては大店の信用に拘わりますゆえ、使用人の教育も行き届いておりました。

また、日本には行儀見習いという制度がございまして、身分の低い町人でも大店や武家に奉公に出て行儀作法を習う機会があったのでございます。実際、江戸城の大奥で水くみや薪割りなど力仕事をする「お末」などは、町人の娘などが多かったのでございますが、お末といえども何処で身分の高い者に出くわさないとも限りません。そのような場合の行儀作法は徹底的に仕込まれたのでございます。

 

 

信用第一の両替商

 

つまり、家に畳が無くとも庶民は奉公先で正座を始めとする行儀作法を習得し、それをまた子や孫に伝えたりできたのでございます。

 

日本人であれば、どなたも幼少の頃にお年寄りから「畳の縁を踏んではいけません」などと叱られた体験があるものでございましょう。このような行儀作法の元は茶の湯の作法でございいます。確かに、正座と畳が武家に広まりましたのは茶の湯の大流行のおかげでございますが、茶の湯の行儀作法は行儀見習いを通して瞬く間に庶民の間にも伝わったのでございます。

 

渓斎英泉「炉ひらき」

 

 

格上の御屋敷に奉公して格上のお作法を学ぶ行儀見習いという風習は、英国の貴族の子弟にもあるそうでございますが、このような風習のないお国の方には、庶民が上流階級の作法を学べるルートが存在するなど思いもよらない事でございましょう。

 

茶の湯の作法は、現代の日本にもそれと知られずに息づいておるのでございます。

 

 

 

ぶった斬る!シリーズ

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その1 丁宗鐡をぶった斬る!

その2 妻と母親を取り違える丁宗鐡

その3 安土桃山時代に高麗人!?!時空を超える丁宗鐡

その4 朝鮮女性はモノと同じですが、江戸の女性は違います

その5 丁宗鐡「利休は正座していなかった!キリッ!」 ~ してますが。

その6 忠誠心と敬意の違いが理解できない丁宗鐡

その7 正座は日本人の心です

その8 丁宗鐡が知らない畳の歴史

その9 江上剛・書評を書いて法則発動

まとめ 丁宗鐡「正座と日本人」間違い一覧

 

 

 

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